たつろうの帰省

■Written by たつろう
1955年、長崎県生まれ。TATSUMAKIのリーダー。長崎市のライブハウス「studio Do!」を運営中。

■ステックを持って上京

 1955年、長崎に生まれる。
 1968年、音楽に目覚め、以来ビートルズ、ストーンズ、LZ、DP等を聞きドラムを始める。
 1969年、母から、
「あんた、勉強もせんでタイコばっかいたたきよったら、大人になって苦労すっよ」
 と言われ、
「おいは、将来ドラムでめしを食うとたい」
 とステックをみせると
「そんがん大きかはしでご飯たべきらんさ」
 と言い返され、ますます音楽で飯を食う事を決心する。

 1972年、高校を卒業し3万円とステックを持ち上京。
 右も左もわからない東京で音楽に関係ありそうな店を見つけわけもわからぬまま、
「すいませ〜んドラムたたかせてくださ〜い!」
 と無茶苦茶な営業をしてまわる。

 1973年。営業をしてまわった結果、怪しい店でドラムをたたいていた(無給)。が、お金が底をつき無一文で部屋もおんだされ、新宿駅に住むこと3ヶ月、とうとう栄養失調になりもうこのまま死ぬんだと思い、思い切って超あやしい(からだにきれいな模様が入ってる人もいる)雀荘に入る。
 実は幼少のころ両親とも麻雀好きでおもちゃは麻雀牌で、小学校に入る頃はもうりっぱに打てた。
 しかし当時、雀荘では見せ金が必要だった。
「どーしよ‥‥」
 と思った瞬間、トイレの前のハンガーにかかってるコートの内ポケットから立派な蛇皮の財布が目に入った。トイレに入るふりをして、悪いと思いつつ財布をぬきとり、中に入ってる札束を取り、雀卓へと向かった。
 そして見せ金をだし、またトイレにはいってそのお金をコートにもどした。
 こうして、生死をかけた麻雀が始まった。
 たつろう、19才の冬である。

■生死をかけた麻雀

 麻雀のメンバーは、対面が学生風でもかなりやりなれてるって感じ、上家がきれいな模様の人、下家はうさんくさいおじさん。
 場所決め(麻雀卓の座る位置。これでゲームの流れがそうとう変わる時もある)がおわり、親もきまり、第一投めのサイコロがふられた洗牌の音が腹に響く。もう何日か飯らしきものを口にしてない。しかも、もしこのゲームで負けると、間違いなく良くて半殺し、悪くて殺されるかもしれない。そういう気持ちと混ざり合って吐き気がしてくる。

「負ける‥‥」

 この3文字を心に描いた時、勝負は目に見えていた(ゲームの内容も覚えていますが省略します)。
 坂道をころがるように負け続けた。
「もうだめだぁ」
 最後の1局になってしまった最後のサイコロが振られ最後の配牌だ。
 なにかが違う。いままでと明らかに配牌が明るい。
「もう最後だ」
 と思った瞬間なにかがふっきれた。
「そうだこの配牌で考えられる最高の役を狙おう」
 そしてゲームは終盤にはいり、最高の役ができあがった。
 それは‥‥、緑一色、四暗子単騎、トリプル役満だ。四ソウ単騎待ち。
 胸は高鳴り汗が額から流れ落ちる。そして最後のツモが回ってきた。
 ハイテイヅモだ。汗ばんだ指で運命の牌をにぎり、力いっぱい盲牌する。
 盲牌をやりなれた右手の親指は、その感触を間違えるはずがなかった。
「四ソウだ!!」
 おもいっきり麻雀卓にたたきつけた!
「つも!!」
 ゆっくり完成された手牌をたおし、
「緑一色、四暗子単騎」
 少々うわずった声で宣言すると一瞬真空状態のように音がなくなり、対面の学生は「すげー!」の一言。
 雀荘では、他人同士でやる場合、勝ち逃げ。これ基本! ←でも、そうとううらまれる(笑)
 しかし、かなり負けていたため、手元にのこったのは1万5千円。
 雀荘を出てやっと飯にありつけると思い、食堂に向かうはずだったが、なぜかその足は東京駅に向かっていた。
 ちなみに、この時歩きながらつくった曲が「こたつがほしい」♪だった(笑)。

■運命のみかん

 待望の食事にありつける絶好のチャンスだったのだが、なぜか長崎に帰ろうとしていた自分が不思議でたまらなかった。
 あの雀荘出るまでは、この空腹を満たすことしか頭になかったのだが、歩き出したとたん、いや、まるで吸い寄せられるように東京駅にいき、長崎までの運賃を計算していた。
「たりない‥‥」

 どんなに計算しても、食事をしたら帰れないのだ。パンさえも口にできない。しかし、なんのためらいもなく列車飛び乗った。
 長崎までおおよそ乗り継ぎだらけの鈍行だ。約24時間ぐらいかかる。しかも、乗り継ぎがあるため、あまり深い眠りにはつけない。
 こんな状態でなんとか京都までたどりついた時、もう限界に近いものがあった。京都駅のホームのベンチで次の列車をまってる時、なんとも言えない甘美な声が聞こえてきた。
「みかん〜♪みかん〜♪」

 そうみかん売りのおばちゃんだ! しかし食えない。もうろうとした頭で「食えないんだ、どうせ金ないし‥‥」と思いつつ手はポケットをまさぐっていた。
「あれ! あった??」
 なぜかいくらかのお金があったのだ。東京駅で計算したときは、たしかになにも食えないはずだったのに。
「おばちゃん!みかんくれ!」
 もう何日も食べ物を口にしてない猛獣のように吠えた。そしてオレンジ色のネットに入った5個入みかんを手に入れ、100円支払った。皮まで食ってしまいそうだったが、まだ長崎まではかなり時間がかかるので、とりあえず次の列車に乗って1個、大阪過ぎたら1個という風に計画してる時、列車がホームに到着し、運命のみかんとともに乗り込んだ。

 この時のみかんうまかったなぁ。この時つくった曲は、「みかんがほしい」‥‥なーんてつくってないよ(笑)。

■100円足りない!

 京都発の列車に乗り込み、空いてる席に座り込んだ。前に座っているのは中学校の先生らしき人と生徒らしい(なんかそんな会話をしていた)。まぁそんなことはどうでもいい、とにかくみかんだ!
 みかんの皮をていねいにむき、ひとふさ口にほうり込むと、みかんの果汁が体の中にしみわたる。甘いとか、すっぱいとか、味を味わうのではなくとにかくうまいのだ!
 そうやってひとふさつづ、ゆっくり、ゆっくり食べ続けた。大阪を過ぎ、計画どうり2個目を食べていた時、後ろのドアから車掌が入ってきた。
「乗車券を拝見させていただきま〜す」
 その声を聞いた時ハッとわれにかえった。改札だ。
「しまった!!!」
 そうなのである。京都からある一部分だけ急行だったのだ。みかんを買ったいくらかのお金は、ここの区間の急行券のお金だったのだ。車掌さんが真横にきた。
「乗車券を見せてください」
「あ‥‥、は‥‥い」
 乗車券だけ車掌に渡すと、
「急行券もお願いします」
「い、いくらですか?」
 足りるはずはなかったが、もしかしたらと思い聞いてみた。
「○×円です」
 やはりちょうど100円たりない‥‥。
「すいません。たりないです」
 この言葉を聞き、車掌はムッとした表情で、
「次の姫路で降りて、公安まで来てください!」
 こう言うと次の車両へと消えていった。
「やばい!」
 中高生のころ、制服の国家公務員からおいかけまわされた経験があるせいで、どうもこの手の制服国家公務員は、苦手なのである。ここで捕まるわけにはいかない。なんとかしなければ。なんとしても長崎に帰らなければ。
 強迫観念に近いものがあったと思う。だから思い切って前にすわってる先生風の人に「すみませんお金を100円貸していただけますか?」と丁寧にお願いすると‥‥、なんと顔をそむけ、目すら合わせてくれないのである。
 この時、世間のことが少しわかったような気がした。甘かった‥‥。しかし、姫路まであまり時間がない、急がなければ。くよくよしてる暇はない。そう言い聞かせ、ペコリと頭を先生風の人に下げ、すっくと席をたった。

■時間がない!

 もう姫路まであまり時間がない!
 しかしこれといって名案があるわけじゃない、かといってカツアゲするわけもいかない。ここは恥ずかしいとか、みじめだとかいってる場合じゃない!
「誠に申し訳ありません、100円貸していただきませんか?」
 この言葉をいったい何人にいったことだろう。自分の乗ってる車両、次の車両、ことごとく相手にしてくれない。
 もうこれで最終車両だ。
「こんなに人間って冷たいんだろうか? ここは日本だったよな?」
 いままで味わったことのない屈辱と悲しみでいっぱいになり、ふと洗面所のカガミをで自分の顔を見てみると、「これが自分か?」と言いたくなるほどやつれ、髪は伸び放題、おまけにヒゲも。どーみても怪しいやつにしか見えなかった。
「ちきしょう〜!!」
 思いっきりカガミをなぐった。コブシから血がでてきた。
「みんな見た目で判断しやがって。この赤い血と同じ血が流れてるんだろうに」
 くやしくて、やるせなくて、涙が出てきた。
「あと5分ほどで姫路〜お客様お忘れ物のないよう〜」
 車内放送だ!
「もうだめか‥‥」
 と顔をあげ、涙でくもった目で最終車両をドアごしに見てみると、最終車両の向こう側から、確かにこっちを見ているおにいさんがいるではないか。しかも微笑んでみている。一瞬後ろに誰か居るのでは?と思ったほどひたしげな、微笑みだ!
 なにかしらまるで知り合いのように。しかし顔に見覚えはない。「あのおにいさんにお願いしてみよう」と思うと同時に、その車両に入ると、その人はどこかの席に座ってしまった。
 慌てて座った席を探してる時、荷物棚に「長崎○×山岳部」と書いてあるリュックが目にはいった。男女4人のグループだったと思う。
「長崎の人だ!」
 わらをもすがる気持ちで、言い馴れた言葉をおもっきり長崎なまりで言ってみた。
「誠にすいません...」
「いいですよ、100円でいいんですか?」
 快く千円札を出してくれた! なんか信じられなかったが体の力がすうっとぬけるような安堵感とうれしさでいっぱいになり、さっきとはちがう涙がでてきた。
「いいえ100円でいいです、ありがとうございます!」
 と涙声で言って、
「千円でも、いいんですよ、」
 というやさしい言葉だけいただき、100円貸してもらった。お礼を十分にしたかったのだがもう時間がないので、またあらためて来るつもりで、車掌の所に走っていき清算をすませた。
 そして、お礼をと思ったのだが、いままでの気疲れと疲労がどっとおそってき、歩くのも困難になったのでとりあえず空いてる席へ座り込み、目を閉じるとそのまま深い眠りについてしまった。

■長崎へ

 長崎まで幾度か乗り継ぎがあったがなんとか乗り継ぎし、次に意識がはっきりしたのは、「長崎〜次は終点長崎〜」の車内放送だった。
 列車がホームに到着し、約2年ぶりに長崎を踏みしめた。
 改札口を出て、山岳部の人たちを待ってみる事にした。心残りだったお礼とお金を返すのに住所を聞こうとおもったのである。
 しかし降りてはこなかった。どこか違う駅でおりたんだなぁ‥‥。しかたがない。とりあえず自宅に帰ってあとで探そう、そう思い長崎駅を後にした。

 家まで徒歩で約30分の道のりだ。途中高校時代の親友である「洋右」という友達の家へ寄ってみる事にした。

「ようすけ〜おるや〜?」(ようすけいますか?)
「お〜だいや〜?」(いるよ誰?)
「おいおいたつろう!」(僕、僕、たつろう!)
「わい!いままでどこおったとや〜?」(君!いままでどこにいたんだい?)
「よかけんくいものばだせ!」(そんなことはいいから食べ物をください)
「なんばいいよっとやいきなりくいもんや?」(なにをいってるんだい突然食べ物かい?)
「りんごしかなかばい!」(りんごしかないよ)
「お〜そいでよか」(ありがとうそのりんごでいいですよ)

 そのりんごをほうばりながら家に電話してみた。2〜3回呼び出し音がなり、母が出た。
「もしもし」
 涙声だ...?
「もしもし‥‥。たつろうだ。いまかえってきたよ」
「いま‥‥、かえってきた‥‥うぅぅぅ」
 泣いてる‥‥? そんなに帰って来た事がうれしいのだろうか?
「どーした?」
 なんか不思議な気持ちで聞いてみた。
「たったいまおじいちゃんが息をひきとったよ‥‥」
「たったいま‥‥息を‥‥、おじいちゃんが‥‥」
 おじいちゃんは昔からよく私をかわいがってくれ、いろんなことを教えてくれた。野菜の育て方、竹のおもちゃの作り方、虫の捕まえ方、川の釣り‥‥。
 電話を切り、走って家に帰り、まだあたたかいおじちゃんの手をにぎり号泣した。
 東京からのことが頭の中をよぎった。そうだったのか。
「呼ばれたんだ‥‥。ありがとう、おじいちゃん」
 いままでのことは偶然じゃなく、そして最後にお金じゃ買えないことを教えてくれたんだ。
「ありがとう‥‥」

 後日、遺品を整理してる時おじいちゃんの若いころの写真を見ると、あの最終車両で微笑んでくれたおにいさんだった。


とりあえず、練習場の確保をと 考えリハーサルスタジオがある、長崎のP楽器店の前に来ていた。そして、P楽器の店長に お願いする事にした。 こちらが 出した条件は お店のお手伝いをするから空いた時間 練習を させて下さいだった。すんなりOKだった。 更にアルバイト代もくれるという..月に1万円だったが 練習ができて 1万円もらえるとは ラッキーだったが、しかしその金額じゃ生活ができない、 もう一つぐらいバイトを しなければと ふたたび バイトを探すため歩き出した..

東京でのにがい経験から 食いっぱぐれのない、食べ物屋に 焦点を 合わせ、探しまわって、そして長崎でも有名な料理店に いちかばちか 入ってみる事にした「どうせ 食べるならおいしいほうがいい」めちゃ 単純な理由である...ロンドンブーツに ロングヘアーのロックかぶれ野郎をもちろんやとってくれるはずが なかった あっさり断られた、が しかし ここで引き下がるわけには行かなかった....
なんとしてもここで バイトし、豪華な晩飯を 確保したかったので、逆に、じゃどーしたら雇ってくれるかを聞いてみた..すると..髪を きって まともな かっこを明日までに してくれば雇ってくれるという答が、帰ってきた。簡単なことだ 要するに普通のかっこを して髪を切れば 豪華な晩飯付きバイトが出来るんだ。ロッカーとしての プライドは ないのか?と 言われそうだか、カッコでやるわけではないので髪を切るぐらいへっちゃら だ!それより晩飯確保のほうが ウエイトは 上なのさ.....
そして 昼楽器店、夜料理店のバイト生活が 始まったわけだが...実は その料理店では.....

(尚、場所、店名、職種、名前等は変えております あしからず;^_^)



翌日ばっさり髪を切り、世間でいう普通のカッコをし その料理店にいった、結果はOK!そしてその日から豪勢な夕食付きのバイトが 始まった...最初は 皿洗いからだ..バイト初日なのでなかなかうまく洗えない先輩方から やさしくもきびしい指導のお言葉を たくさん受けつつ時間がすぎ、待望の夕食に近づいていった...
先輩から「飯、いってこいよ」の言葉を聞いた時、世界一の笑顔で「はい!!!」と答え、食堂へと向かった、食堂は 本館から少し離れたとこにあった 腹の虫が鳴くのを 押さえつつ席について豪華な夕食をまってると後から来た仲居のおばちゃんが笑いながら...

おばちゃん「そこに すわっとっても だいも 注文ば とりこんよ」(そこにすわっていても誰も注文を取りに来ないよ」
たつろう「へ?」(え?)
おばちゃん「あそこんいって わがで ついでこんば」(あそこに いって 自分でしなければ」おばちゃんの指の先を 見てみると...そこには、大きな釜と大きなずん胴があった恐る恐る近づいて見てみると釜は ごはん、ずん胴は 味噌汁、そしてちかくのおお皿に たくわん、これだけだ..どこをさがしても豪華な夕食はない。今考えると 当たり前の 話だが、従業員に店で出してるものを 食わせるはずがなかったのである............
よ〜し こうなりゃ質より量だと考え方を変え、どんぶりに大盛りのご飯をつぎ味噌汁をおわんになみなみと入れ、ガツガツと豪快な夕食を 取りながら ふと食堂奥の部屋を見てみると そこには豪華な雀卓があるではないか..
仲居のおばちゃんに それとなく聞いてみると 店の経営者が麻雀好きで、閉店してからいつもやってるらしいということだ
豪華な夕食は だめだったが..豪華な雀卓には、ありつけそうだと 思ったのだが.......
ちゃんと昼のバイトで音楽修行は つづけて いましたので その辺は後ほど...(^^)

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バイトに入って約 一週間が過ぎたころ、ちゃっかり仕事先の先輩方、店長とかと豪華な卓を囲んでいた....
こういう流れに持っていくのは もって生まれた才能だと自分でも感心する ようするにずうずうしいのである。さて 肝心の麻雀の成績だが..店のご主人は たいしたことがない がしかし 2人の先輩方がやたらつよいのである。1人は バイトの大学7年生のKさん 、7年も 大学に行っててきっと麻雀ばかりしてたのだろうとにかく負けない。もう1人は、板前のAさん、40才ぐらいであろうか、歳を食ってる分勝負の駆け引きが絶妙!..........

一ヶ月目のバイト代は この二人にもってかれた..しかし ただでもってかれたんじゃない、この二人か学ぶことは沢山あった。たとえば....捨て牌の読み方、相手の聴牌の時期、目の動き、点棒を考えながら打つこと、洞察するということ、等
いま 思うと当たり前のことだが 当時、ただ野生の感で打ってきた 私には どれも勉強になることばっかりだった。二ヶ月目のバイト代は、なくならずにすんだ...この時期に二人の先輩から盗めるだけのわざを盗んだのだ..

三ヶ月目...その収入は バイト代を はるかに超えていた、まったくいいバイトだ...店のご主人は、あいかわらず
負け続け...二人の先輩と私に給料プラスそれを 支払うはめに、なったのである..この頃にはバイトの後輩もでき、一人前に仕事を 教えてやったり したのだがほとんど麻雀のことと上手につまみ食いをする方法を伝授していた。

いろんな人がいた...宗教家のSさん ...この人は 話を始めると すごく夢中になって思わず熱い鉄板に両手をついてしまい、おおやけどを 負って両手包帯で毎日休まずに バイトに来たというまじめで熱い人だ.......
料理搬送リフトにはいって 注文品を直接手渡ししてくれる新米板さんのBくん...ちょっとおかまっぽい主任のOさん。この人は お店の皿を 100枚ぐらいいっきに割ってしまうという荒技を 披露してみんなをたのしませてくれた...
そんな中、油ですべって、手に持っていた 海老を 天井に張り付かせてしまうという私もいたのだが、とにかくにぎやかに バイトを初めて半年が 過ぎたある日仕事がおわり 後かたずけを してる時電話がかかってきた。
電話の相手は、バイトの後輩の中でも特に仲良くしてたちょっと ヤンキーなUくんだった.....Uくん「もしもし ちょっとヤバイことになったんです......来てくれませんか?」声がふるえてる...たつろう「どーした?..」と わけを聞いてみるとギャンブルで大変なことになってるらしいのだ、場所を聞き急いでいってみると そこは こわい人たちが たむろしている雑居ビルの一室だった恐る恐るドアを開けてみるとてっきり麻雀だとおもって来たのだが..それは 違っていた..................



そこに あったのは どんぶりと サイコロが3つ...日本古来からのゲームチンチロリン!ルールを簡単に説明しよう。まず親と子を 決め、勝負は親vs子となる つまり 親が1人、子は 何人でもいい子が4人ならば1対4の戦いだ...

ゲームの内容は 3つのサイコロを どんぶりのなかに 振ってその出た目で 争う単純なゲームだ、単純なだけに勝負は 早く、すごく熱くなってしまい ほとんど倍倍ゲームに なってしまい最後には取り返しのつかない金額になってしまうという おそろしい賭博だ!ルールによっては この倍掛を 禁止する場合もあるが、そのほうが身の為だ.....

もうすこし説明しよう、サイコロを 振るチャンスは 3回あるこの3回のチャンスで出目をだせば
いいのだが、出なかったら 即負け!出目の説明は ここでは 避けておきましょう..とりあえず親が六をだすと即 勝ちに なる..話を もどそう......

U君は 昔から付き合いの とてもファンキーな 人達から、このゲームのお誘いを受け断りきれずにやってしまったという、そして案の定負けてしまい 借用書まで書かされていたのだ、その金額は....とても払いきれるものでは、ない。
それで電話を かけてきて 助けてくれ と いうことである..助けてと いわれてもとても助けてあげられる金額ではない。手持ちのお金は、バイト代を もしやと 思い前借りしてきた 5万円少々..ぜんぜんたりない、ここは火中にとびこむしかないと思い、その人達に お願いをして それに参加させてくれ と いうしか方法はなかったのである...

ファンキーな 人達に してみれば、飛んで火にいる なんとやら ある..かもがまた来たと思い2つ返事で OKだ。しかし、この雰囲気は こわい...心臓が 口から出そうになるぐらい 鼓動がはげしい、この緊張感はいやな感じだ..
そしてゲームが 始まり まずは 子からのスタートだ最初は 小さい金額から はっていく..なかなか勝てない...どうもおかしい 条件は 同じはずだが、勝率が 違うのである、なんか変だ....そして麻雀で鍛えた洞察を始めてみた..相手の目の動き..まわりの環境..なにかが ある! そう気づいたのは、持ち金が半分を切った。
ところだった............わかった!!!!!! それは........



なんかサイコロの 握り方が ちがう ...なるほど あいうふうに 握ると目が出やすいんだ.. しかし むずかしい握り方だ..いろいろ 頭のなかで 考えて..そして やってみることにした。
子のときに やってもしかたがないので..思い切って「すいません 親を やらしてください!」と いってみた サイコロの目が 4以下に ならないと 親は 流れないのだが..相手はかもってやろうと 入れたのだから もちろん 大歓迎で 「やってみろや」と低い声で 言われた..

チャンスは たぶん1回きり 私が 親の時に 子は すごい金額を はってくるにちがいない。ゲームが始まった...案の定 とても ここでは 書けないぐらいのはり方だ...ここで負けると Uくんと同じぐらいの借用書書かされ たいへんな ことになってしまう..まさに ミイラ取りがミイラだ。

ここは 度胸を決めて あのむずかしい 握り方に挑戦しなければ ならない.....そしてサイコロを なんとか、その握りで かまえた 瞬間!ファンキーな人達から いっせいににらまれ「おまえ...」と すごまれたが..間髪いれず どんぶりのなかにサイコロをほうりこんだ。
チンチロ..と どんぶりの中でサイコロが おどり 出た目は...111 ピンゾロだ!.....掛け金の10倍もらえる 目だ..すごい金額勝ってしまった..しかし うれしいのは一瞬だけ、血の気が引くような その場の雰囲気だ..どーしよ マジでこわい..ここは..Uくんの負け分とチャラに するしかない 勝ってそのまま帰られるはずが ないのだ...

そして チャラに してこの場を 去ることを ビクビクしながら 言うと、あっさり承諾してくれた「またこいよ」の声を ききながら そこを 出てUくんと 抱き合って 喜び、もう二度とくるもんかと、お互いにちかいあったのである....
後日何度か お誘いは あったが 丁重にお断りし..もう二度と あの チンチロリンのサイコロの音を 聞く事が なかった....................
ずいぶんあとで その筋の人に 聞いたのだが あの握り方は その界隈で 御法度になってる握り方で、それで すんなり 帰してくれたんだなぁと 謎は 解けた(笑)
こうして 夜のバイトは すったもんだしながらも たのしく やっていたのだが..........昼間に時間がある時 知り合いの運送屋を 手伝っていたのだが そこで 将来の音楽人生にかかわる大変な ことが おこってしまった! それは..................


20歳後半〜

昼間の空き日に よく 運送助手のバイトを していた...仕事は 簡単な作業で主に荷物の積み下ろしだ配達先は長崎は 港町だけに、 造船所が おおかった..したがって 荷物は 機械類の材料まぁ鉄の塊と想像してくれればいいと思う...そのころは 痩せていたため 筋力トレーニングのつもりで、できるだけ重いものをすすんで運んでいた 自分で言うのも おかしいけれど とにかく練習熱心でトラックの中に練習台を作って 目的地までの 時間を 有効に 利用し、パタパタと ステックを 振っていた、運転手さんも音楽が好きな人で良くロックを聞き、歌いながら運転していた....へただった..そんな車中、夢は膨らんでいた世界一のドラマーになって 世界中を まわって、そして 金髪のかわいい女性を 彼女にしてリムジンに乗って豪邸に住むんだと
あくまでも 夢である、夢は 大きい方がいい....その とても しらふでは人には言えない夢を実現するために毎日
毎日 ドラムの練習とバイトに 明け暮れていた.....

そんな ある日..いつものように運送助手のバイトに行き荷物の積み下ろしをしていた時 それは おこった....相手が鉄の塊というとこで厚い皮の手袋をして作業をするのだがその日の荷物は いつもに増して 重く荒々しかった..荷台の上に乗り運転手と一緒に塊を荷台の奥へ順番に 積んでいく作業だ 声を合わせ、「せ〜の!」ガシャーンと いう音とともに塊が荷台におさまっていく、2〜3個積んだ。
ところだろうか...運転手さんとの 掛け声のタイミングが ずれた....しまった!しかも塊に手袋が引っかかってしまった! 声を 出す暇も なかった 塊とともに体ごと 持っていかれ、ガシャーンの音と同時に右手 中指が 鉄の塊の間に はさまってしまった..「うぅ」と短い叫び 声をあげ塊の間から指を引き抜くと...おどろくほど簡単に
手は抜けた しかし....中指は なかった...ちぎれ、皮の手袋の中にそれはあった。

意識が遠くなりそうだったが..運転手さんと なんとか止血し ちぎれた指を拾い救急車をまった.....待つ間そんなに 痛みらしいのは、感じなかったが まるで心臓が指についてる感じだ..冷や汗がでてきた.. 運転者さんは必死に 励ましてくれてる..それに うんうん と うなずくしかできない..そしてけたたましい。
サイレンの音と共に 救急車は やったきた...........................

救急車に 乗り込み 緊急手当てを してもらい 病院へ 向かった 車中痛みが増してくる..まるで家の中で歩いてる途中、出っ張りに
足の小指を ぶつけた時の 約15倍ぐらいの痛みだ..
しかし 意外なほど 近くに 救急病院が あったので すぐ 手術室に 入る事が できた時間が早い事と指の切断面が きれいだったと いう事で、お医者さんの 「大丈夫だよ」の一言が
痛みも飛んでしまうほど うれしかった..しかし 手術が すんでからの痛みと来たら..約15倍が150倍 ぐらいの 痛みとなって 3日ほど つづいた..

何十日か入院をし そして退院し..リハビリと 練習の日々を 始めるはずだったが.....なぜかステックを 振るのが 無性に恐いのである..しかも 痛い..振ると傷口が開いて来るような感覚に襲われて 右手を 振る事ができない..医者からは もちろん1年以上はドラムなんてとんでもない と 言われてるし...片手で 練習もしてみたが、どうもしっくり行かないしかたがない ここは 1年間 ドラムのことは 忘れよう そう 決めて遊び半分で手に取った楽器がベースギターなのだ..しかし 指では 弾けないし..そこで考えたのが右手の親指にピックを 縛り付け(方法は ピックに 3箇所、小さな 穴を あけ細いひもでしばる)そして ベースを 右手の親指だけで 弾くのである..この 遊びで始めた 練習方法が後の、この頃では珍しいチョッパー奏法の 複線となろうとは、知る由もなかった......
そして 1年後..つづく

以下は つづくからちょっと 小休憩(笑)