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FOREVER KENICHI MAKI  上田和史 UPPY 

上田和史 UPPY 槙健一への想い

 
そして、ここで、ちゃんと紹介しなくてはいけないのは、REDのもう一人のVocalの宮本ちかし です。

何故、彼が、REDのメンバー、もうひとりのVocal だったかと言う、理由は、槙が彼の声質に自分にないワイルドさが有るのに、ひかれていたのも事実ですが、自分一人で舞台センターで居るより、やはり体に少し、不安を抱えている心理的に不安な状態を、ツインボーカルと言う事で何とか自分が成立する活路を、精神的な安定を見い出す方法論であったのは、今だからこそ、言える真実です。

そして、REDのアルバムが完成し、ピースビートコンサートも無事成功を収めました。

そして、アルバムの出来に気を良くした僕は、自分の知るレーベルの何社かにそのアルバムを送りました。(僕としては、槙が、又、東京に来て、メジャーな舞台で再び活躍して欲しいと言う願いを込め、)そうすると、SONYから是非とも、うちでやりたいとの連絡を受け、喜々として槙に電話したことを、はっきりと覚えています。

でも、槙の返事は、くぐもった声でした、、、、。

自分がソロアーティストとして、一人で、デビューして、そして、体の不調が理由で活動出来なくなって、長崎に戻って、これからまた、東京に行ってREDというユニツトで完治してない体で、ちゃんと、出来るのかどうか、という不安が、有ったのでした。

冷静に考えれば、至極、あたりまえな事です、、、、が、僕の思いは複雑でした。槙と言う人は才能、素材、色んな意味で東京で、メジャーで出来る人なのにという、自分の撫れ込んだ思いが強すぎたんでしょう。

でもやはり、体が一番なので、長崎に居て、体が完治して、精神的にも万全の状態になる時を待って、又一緒にやろうと決めたのでした。でも、、槙と言う男は、懲りない奴で(良い意味で)又長崎に、独りで居ると、創作意欲が湧いて来てしまっていました。そして、長崎NBC、午前中の人気番組アップルトゥデイで活躍する市原君が唄う、アツプルトゥデイのエンディングテーマの作曲依頼が槙に来たのでした。
そして、楽曲があがり、レコーディングとなった時に、ギターの音を僕に求めてくれて、又、長崎に向かったのでした


槙のつくったアップルトゥディのエンディングテーマは好評のうちに第2作、第3作とつくられていきました。そして市原君とのユニットとしてのイベントライブも増えていきましたが、体的には完治してないから動きづらく、自分の中で、形を暗中模索していた時期ではありました。

そんな中、長崎の病院では、治せる技術の限界にあるとの宣告を受け東京の多摩川病院(肺の病気に関しては日本のトツプの病院)に入院しました。そして、退院する日、夏の熱い日に、槙を病院まで、迎えに行ったのは昨目の事の様に覚えています。
でも、大きな手術をして治すのでは無く、(かなりもうボロボロの肺の状態だったみたいです。)薬で良い方向に向けて行きそして自らの体の自然治癒力を高めて行き治して行くと言う感じの、長い目で見た方法しか無かったみたいです。

親友の村沢君の部屋に居候しながら、買ったばかりのパソコンでホームページを作ったりしながら通院して薬をもらったりして、定期的な診察を受けると言う期間が有りました。そして、少し時が経ち、長崎に戻り、新たに、MOTlONという、事務所を設立し、自宅の応接間を改造し、唄が録れるブースまで作り音楽制作に新たなる挑戦を始めたのでした。でも、自分が唄う事にはドクターストップがかかっていたりして、曲を作り、ひとを、プロデュースする事を、始め、長崎発信で上質の音楽作りを目指していました。

そして、モーションとして、TA1SHI君とダブル・タンバリンというユニットの作曲とプロデュースを手掛け、作品を発表し、さらなる展開を開始して行こうとしていた矢先に、少しその制作の作業の中で、入り込んで責任感の強い性格から、自分の体力の許容量と限界を超えて、精神力のみのパワーで頑張ってしまったツケが、一気に来てしまい、吐血して病院にかつぎこまれ、頑張ろうとした物の、(最後は、何度も、心停止する状態からすごい意志と生命力でr生」への前向きな気持ちで頑張って、戦ったそうです。)天国に召されてしまいました。

僕も、槙が入院して、かなりやばい状況だと言うのを弟から電話を受けていた物のちょうどSMAPのツアー中で、スケジュールの合間を見て、新潟のコンサート本番明けの、次の日に長崎に見舞いに行って元気づけに励ましに行くからと、飛行機のチケットを取っていたのに、病状急変で、弟から、兄貴が、槙健一が持ちませんでした、駄目でした、との報を受けたのは、新潟のホテルにいる、未明、5:00頃でした。

長崎行きのそのチケツトは、槙の葬儀に行く、チケツトになるなんて恩いもよりませんでしたが、知り合った頃から、後、もう少しという肝心なところで、何かしら、間が悪かったりする所の有る、とぼけた味の彼らしい去り方だな〜なんて切なく感じてしまいました。

   出会いも、爽やかな風の様な奴でしたが、
         去り際も、風の様に去って行ってしまいました。
    (風より、強く生きていきたい、いつまでもと唄っていたのに・・・ )

今日この場に来て頂いた、全ての人々に、元気が、爽やかさが当たり前で、ファンの人に元気を、勇気を与えて生きていかなきやいけない、使命を持つタレント、アーティストとして、デビューをしてしまった、槙健一という人が、自ら抱えてしまった病気とこんなに前向きに戦って生き抜いたという事実を、マイナスイメージになるからと隠し通して来た様々な事実を、天に召された今、皆さんと分かち合って知って頂く事で、痛さを隠し通して無理して生きていた彼の痛みが、もう無理しなくていいから安らかに、そっちで(天国で)無理せずに唄っててね!」と皆で伝えてあげる事で、和らぐ様に、天国では無理せず、気を使わずにいれる様にしてあげたいと思って、この、栞を書き綴りました。それぞれに、気持ちを、込めて、安らかにと祈ってあげて下さい!
そして彼の作品を皆で分かち合いましょう!(不祥私、ウッピーの唄ですが、、)