彼と知り合ったのは95年に長崎で行われた「ワールドピースフェスタ」という平和がテーマのイベントだった。同じ長埼出身という事で仲良くなった俺達は意気投合し「来年もこのイベントに一緒に出演しよう。」と約束をした。が、残念ながらこのイベントに“2年目”は無かった(笑)。

96年、心から“平和"を願う彼は奮起し仲間達と「ピースピートクラブ」というイベントを立ち上げる。「力を貸して欲しい」と俺達を誘ってくれた。もちろん二つ返事で了解し参加させてもらった。スタッフは皆、素人のボランティア。にもかかわらずイベントは大成功!!彼を中心にみんなの気持ちが1つになった結果だ。ところが、盛り上がる打ち上げの中、彼から話したいことがあると呼ばれた。
「実は数年前から肺の病気を患っていて、このままではバンドのメンパーやスタッフに迷惑がかかる。一度長崎に帰ってキチンと治療する事にした。」と言うのだ。念願のプロデビューから2年。東京での活動もようやく波に乗り始めた頃。彼の無念な想いが痛いほど俺の胸を突き刺した。その日から俺は、彼の勇気に満ちた生き様を陰ながら見守っていく事になる。

それから、長崎に戻った彼は入退院を繰り返しながら、アーティストとしての生き方を貫いた。今の自分の体で出来ることを模索し新しい事にどんどん挑戦していった。同じ歌唄いとして、肺の病気がどれほど辛いものか俺には良く解かる。もし俺が彼の立場だったら歌う事を諦めたかも知れない。だが彼は決して諦めなかった。病気と闘うことはもちろん、自らの体にムチ打ちながら歌い続けた。

長崎での生活にようやく慣れ始めた頃、彼は新しいユニットを結成し、インディーズレーベルからCDを発売した。CMやテレビ番組のエンディングに抜擢され当時の長崎では驚異的な枚数を売り上げた。今まで長崎で誰もが成し得なかった事を、彼はやり遂げたのだ。

丁度その頃、地元のFM長崎で彼と一緒に番組をやる事になった。3週間に1度俺が長崎に行き、生放送を1 本、収録を2本というペースで2年間続いた。その頃すでに肺全体の機能の半分位しか動いておらず、体調の悪い日は普通に呼吸するのも辛い状態だった。俺の目の前に座り、呼吸が苦しいのを必死にこらえながら一生懸命マイクに向かって話している姿は今でも目に焼き付いている。心配するスタッフに優しい笑顔で「大文夫です!!」
と答えていた。いつも人を気遺い、面倒見の良い、強くて優しい男だった。

だが、音楽活動が順調に進む中、彼の病も密かに進行していた。長崎でお世話になつていた医者に勧められ肺の病気に詳しい東京の病院に入院し検査をする事になった。そして検査の結果、彼の肺がもう一つ別の病に冒されている事が解った。通院しながら暫く経過を診たいという事でそれから約1年間、都内のアパートに住み通院しながら治療を続けた。
偶然にも俺の家の近くの病院だったので、暇な時はアパートから送り迎えをした。そしていつも帰り道の途中で2人で寿司を食った。音楽やコンピューターの話をしながらのその時間は俺達にとってとても楽しい大切な時間だった。そんなことを繰り返しているうちにお互いを兄弟のように想い始めていた。

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